豊臣秀長に高く評価された島津家久の軍事的「手腕」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第92回
■家久が外交面でもみせた「手腕」
1586年に、窮地に陥っている大友家への援軍として、仙石秀久(せんごくひでひさ)を総大将とした豊臣軍の先発隊が上陸します。
家久は戸次川(へつぎがわ)での決戦を計画して豊臣軍を巧みに渡河させ、再び伏兵による猛攻撃を加えて潰走させています。この戸次川の戦いで、長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)や十河存保(そごうまさやす)を戦死させ、大損害を与えています。
そして豊臣秀長(とよとみひでなが)が率いる大兵力が上陸すると、家久は島津軍を豊後国から撤退させ、日向国にまで戦線を下げます。
その後の根白坂(ねじろざか)の戦いでは、逆に豊臣軍に誘い出され、大将格の者が多数討死するほどの大敗を喫しています。
戦力に大きな差があると判断した家久は、兄義久や義弘の許可を得ず、先行して単独で豊臣軍との和議に応じました。
この時、総大将であった豊臣秀長に、上方で領地を受けたいと申し出て、そのように取り計らわれる予定だったとも言われています。当主の義久はこの家久の判断について、書状で苦言を呈していました。しかし、徹底抗戦を諦めるひとつのきっかけになったと考えられます。
その直後、家久は降伏のすぐ後に急死してしまいます。これは家久の軍事的な「手腕」を恐れた豊臣方の暗殺、または島津家による暗殺との噂が立ちました。
■「手腕」が生む警戒や嫉妬
家久は島津四兄弟の中では地味な印象がありますが、実際は軍事的な「手腕」を発揮し、島津家の勝利に何度も貢献した人物でした。
その貢献度の高さは、家久の親族樺山忠助(かばやまただすけ)が、家久の軍功に嫉妬する兄義弘の様子について、書き残すほどだったようです。
現代でも、経営的または政治的「手腕」に優れるあまりに、身内だけでなく外部からも高く評価されるケースが多々あります。
もし家久が独自の判断で降伏していなければ、島津家は徹底抗戦を続け、転減封や改易になっていたかもしれません。
ちなみに、家久は1575年ごろ伊勢神宮参拝のために上洛し、明智光秀の接待を受けて坂本城を見学しており、中央政権の強大さを実際に体感しています。
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